■場所
大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町
■由緒
紀元前90年、崇神天皇が素盞鳴尊を祀ったのがこの神社の始まりらしい。
201~269年、神功皇后が三韓征伐から凱旋の途中、応神天皇の異母兄・忍熊皇子の反乱に遭ったが、
この地で方災除けを祈願し反乱軍との戦いに勝ったらしい。
この時、神功皇后が神社の埴土(はにつち)を菰(こも)の葉に包み、粽(ちまき)として祀ったらしい。
そんなこんなで、この粽(ちまき)を持てば、方位における災いから逃れることができるらしい。
270~312年、素盞嗚尊、三筒男神、神功皇后を合祀して方違大依羅神と称したらしい。
この地は、摂津、河内、和泉の三国の境に位置している為、三国山、三国の衢(ちまた)、三国丘と呼ばれていたらしい。
三国の境にある為、方角のない聖地とされ、古来より方除けの神として参拝者が絶えないらしい。
朝廷や武家などからも崇敬が篤く、仁徳天皇、孝徳天皇、弘法大師、平清盛、後鳥羽天皇、徳川家康などがこの神社で祈願したらしい。
1868年、京都から東京への遷都の際、17日間の祈祷が行われたらしい。
現在も、新築、転居、旅行などの方除祈願で全国から参拝者が訪れるらしい。
■参拝日
2019年1月18日
■日記
反正天皇陵の隣りに鎮座する方違神社に到着!
何となく方向音痴な人が集まりそうな社名ですが、陰陽道の方違えの風習からきた社名とのことです。いわゆる方災除けの神社です。
この地はもともとどの方角にも属さない、いわゆる方角のない地とされていたらしいです。
BO ØWYの『 Ø』は何者にも属さないという意味らしいです。
そんなこんなで、どの方角にも属さないという意味で、方違Ø神社と想像してはニヤニヤとしていたひと時。
神紋はもちろん『Ø』・・・嗚呼、早く大人になりたい。
そんな事より、境内の片隅に神功皇后御馬繋之松の碑がありました。神功皇后もここに来たのかと思うと少々ウキッとなりました。
そんなこんなで参拝後、神社に隣接する反正天皇陵を観察。もうここまでデカいとただの池にしか見えない。
巨大古墳は上から見ないとただの池ですなぁ。
■公式ホームページ
方違神社 公式サイト ~方災除の社~ (ほうちがいじんじゃ) >>
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■方違神社■
方違えとは陰陽道に基づく考え方で平安時代に盛んに行われた風習らしい 外出の際、目的地が禁忌の方向に当たる場合は、直接目的地に行かず凶方を避けながら屈折して目的地に行くことなどなど ややこしくて面倒臭くて何度読んでも理解できないガンジガラメな風習
この地は、摂津、河内、和泉の三国の境に位置している為 摂津の国から見ると南に神社があり、和泉の国から見ると北に神社があります つまり南であり北でもあるので南北を相殺しちゃいます 同様に東西も相殺しちゃう為、この地には方角がないとされています
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■境内入口■
そんなこんなで、到着!
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■鳥居■
1909年建立
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■鳥居■
方違え、方災除けの神
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■三国ヶ丘の石碑■
この地は 摂津、河内、和泉の三国の境 そんなこんなで 堺という地名の由来は 三国の境という意味らしい そして 三国ヶ丘という町名は 摂津、河内、和泉の三国が 見渡せる丘という意味らしい
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■狛犬①■
1912年作
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■狛犬①■
爪で立つ狛犬 人間でいう つま先立ちみたいなもの でしょうか
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■狛犬②■
首が長く 人面っぽい仕上がり
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■狛犬②■
かなり人間化した 狛犬でした
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■参道■
拝殿方面と 手水舎方面へと分かれる 三叉路タイプの参道
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■手水舎■
そんなこんなで まずは手水舎
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■手水舎■
左 → 方違宮の手水鉢 1828年作
右 → 三国山の井戸 制作年は確認できず
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■神功皇后御馬繋之松■
神功皇后がこの松に 馬を繋いだという! って事は、樹齢1800年以上! ・・・んなワケないか 多分、何代目かの松 なんだろうなぁ
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■拝殿■
方違幸大神、天神地祇 素盞嗚尊、住吉大神 神功皇后を祀る
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■拝殿■
2018年に再建された ほぼ新品の社殿
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■本殿■
古来より 方除けの神として 参拝者が絶えないらしい
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■神明社■
境内社です
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■クスノキ■
樹高 12m 幹周り 2.4m
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■境内の風景■
神社の隣りには 反正天皇陵古墳があり 境内から古墳を 望む事ができます
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■絵馬①■
社殿造営記念の絵馬 メタリック仕様 もしかして限定物?
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■絵馬②■
八掛羅盤的な絵馬
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