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沼名前神社

■場所

広島県福山市鞆町後地

■由緒

約1800年前、神功皇后が西国へ下向する際、この地に立ち寄り、大綿津見命を祀り海路の安全を祈願したのがこの神社の始まりらしい。 その後、神功皇后が帰路の際、再びこの地に立ち寄り、綿津見神命に稜威の高鞆(弓を射る時に使った武具の一種)を奉納したことから、 この地が鞆と呼ばれるようになったらしい。もとは、渡守神社という社名だったらしい。 1596~1615年、鞆祇園宮の境内社として現在地に遷座したらしい。 1868年、鞆祇園宮は素盞鳴神社と改称したらしい。 1871年、沼名前神社と改称したらしい。 1876年、渡守神社の神霊を本殿に奉斎し、祇園神を相殿に改めたらしい。

■参拝日

2009年10月3日

■日記

今年2度目の鞆の浦来町です。 先日、鞆の浦の『埋め立て架橋問題』の裁判判決が全国ニュースで流れてました。 『埋め立て架橋問題』とは、町の景観を害するとの事で『架橋はダメ~』的な判決を下された裁判です。 裁判の話しはさておき、本日、鞆の浦に到着後、沼名前神社へ向かう途中に見知らぬお爺ちゃんと話す機会がありました。 そのお爺ちゃんから、鞆の浦の歴史&沼名前神社の由緒についてお話を聞かせてもらいました。 そして話しが尽きた頃、お爺ちゃんは『鞆も終わりじゃ~ぁ~ぁ』って言い出しました。 どうやらお爺ちゃんは鞆の浦に橋が架かる事に『鞆の浦の未来』を託していたらしく『架橋はダメ~』的な判決に絶望感を抱いておる模様。 どうやら住民の過半数以上は架橋に対して賛成らしいです。 理由はイロイロあるみたいですが、お爺ちゃんが言うには、橋が架かる事によって生活が非常に便利になるとのこと。 確かに確かに、便利な生活を望む住民の気持ちはよくわかる! しかし、この穏やかで美しい景観は後世まで残すべし!という気持ちもある! 一体全体、私はどっちの目線で考えれば良いのじゃ・・・わからん。 そんな事を考えながらテクテク歩いて、沼名前神社に到着! 神社に到着後、夢中になって写真を撮ってると、すっかり『埋め立て架橋問題』の事を忘れている自分に気付く。 結局のところ、私にとってはどっちでもいい問題なんだろうと、自分の裁判に判決を下す。 しかしそれにしても『鞆も終わりじゃ~ぁ~ぁ』の一言が非常に印象的で何だか切ない朝を迎えた次第です。 ちなみに沼名前神社と書いて『ぬなくまじんじゃ』と読みます。絶対に『ぬまなまえ』だと思います。日本語って難しい。

■公式ホームページ

沼名前神社のホームページ >>

■ご朱印■

ご朱印

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■鳥居①■


到着!

■参道■


■鳥居②■


1625年建立

■鳥居②■


先っちょがニュンってなっていて
とても珍すぃ
鳥衾形鳥居というらしい

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■石灯篭■


頭デッカチでステキ

■神馬舎■


■狛犬①■


1847年作

■狛犬②■


人間っぽい鼻に感動!

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■随神門■


1735年建立

■随神門■


左側に矢大臣
右側に左大臣

■随神門■


随神門をくぐると

■参道■


拝殿へ続く石階段

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■手水舎■


■拝殿■


クリーミーな色の建物でした

■本殿■


大綿津見命
須佐之男命を祀る

■石灯篭■


1651年建立
水野勝貞が奉納

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八幡神社と渡守神社


■八幡神社■


なんと建物の横には
神馬が閉じ込められてました
こりゃ珍すぃ

■渡守神社■


八幡神社同様、渡守神社も
神馬が閉じ込められてました
こりゃ珍すぃ

■土蔵■


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■鳥居③■


チープだけど
いい味出てる両部鳥居

■能舞台■


桃山時代建立 国重文
日本で唯一の組立式能舞台
豊臣秀吉が愛用したものらしい

■能舞台■


徳川幕府により
伏見城から福山城へ移築後
1650年代に再び移築

■大砲■


第一次世界大戦の戦利品
ドイツ製らしい

ひと足のばして
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■常夜燈■


江戸時代の灯台で
常夜燈としては日本一の大きさ

■常夜燈■


鞆の浦のシンボルです

■いろは丸展示館■


鞆の浦沖で沈んだいろは丸の
引き揚げ物などを展示
龍馬ファン必見スポット

■坂本龍馬 宿泊跡■


いろは丸事件後
隠れ家として使用していた
建物らしい

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■公衆便所■


よく見てみると

■公衆便所■


便所マークが龍馬とお龍!
オッシャレです