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尾崎神社

■場所

広島県広島市安芸区矢野西

■由緒

1470年、矢野城の城主・野間興勝と神官・香川勝重が、尾張国・内海の玉依八幡宮を遷座したのが始まりらしい。 1614年、現在地に遷座したらしい。 1747年、第11代神宮・香川将監が凶作や災害に備えて穀物を蓄えておく社倉法を実施し、814町村の人々を救済したらしい。 江戸時代、広島藩主・浅野氏が、浅野氏の家紋、芸備両国社倉総鎮守(広島藩一の宮)のほか、数多くの褒賞を与えたらしい。

■参拝日

2018年12月15日

■日記

青春時代、尾崎神社のお祭りで鬼に追いかけ回されたことがあります。 『うぉるるるりぁぁぁーーーっっっ!!!!』お面をかぶってるけど絶対わかる!絶対あの人じゃ!なんなら鬼のお面かぶらなくても素顔が鬼! 捕まったら多分あの世行きなのでめちゃくちゃ逃げました。 あの時の私は絶対にベンジョンソンより早かった。これはもう絶対!私が若い頃の矢野はそんな町だったのです。悪の巣窟だったのです。 そんなこんなで、約25年ぶりに尾崎神社を参拝!拝殿前の挑発的な勇ましい狛犬に当時の鬼の影を見る。 これはもう死ぬまでこのトラウマと付き合っていかなきゃなんないんだろう・・・。 そんな事より、この神社は矢野城の城主・野間氏ゆかりの神社だという! 先日の矢野城跡、野間神社、そしてこの尾崎神社。今週はやたらと野間氏に縁があります。 調べてみると野間氏は、戦国時代、矢野から吉浦までを支配しており、毛利氏や竹原小早川氏と激しく争ってたんだと。 でも最終的に毛利氏によって一族皆殺しに・・・。 数日前に初めて野間氏の事を知ったんだけど、もしかしたら野間氏はここらの人達&戦国ファンの方々には結構知られた存在なのかも知れない。 もっともっと広島を勉強しないと。そんなこんなで参拝後、宮司さん宅を訪ねる。ご朱印はやってないとのことです。(2018年12月15日現在)

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■境内入口■


到着!

■注連柱■


1919年建立

■鳥居①■


1917年建立

■手水舎①■


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■参道■


長めの階段を上ると

■鳥居②■


1940年建立

■参道■


石柱は1901年建立

■手水舎②■


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■狛犬①■


制作年は不詳

■狛犬②■


広島玉乗り型の狛犬

■狛犬③■


1943年作

■狛犬④■


大東亜戦争記念
として建立

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■狛犬⑤■


1820年作
めちゃくちゃ
勇ましい狛犬でした

■狛犬⑤■


構え型の狛犬

■狛犬⑤■


写真では伝わりませんが
結構デカい狛犬でした!

■狛犬⑤■


さざえタイプの毛質

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■狛犬⑥■


1820年作

■狛犬⑥■


めちゃくちゃ挑発的です!

■狛犬⑥■


これはいい!しばし見惚れる

■狛犬⑥■


躍動するモモ裏毛

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■拝殿■


応神天皇、神功皇后
玉依姫命を祀る

■拝殿■


野間氏、浅野氏
ゆかりの神社

■拝殿■


蟇股

■拝殿■


木鼻

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■拝殿■


拝殿内

■拝殿■


弁慶の
引き摺り鐘の絵馬
1916年奉納

■本殿■


入母屋造りの立派な
本殿でした

■境内からの景色■


本殿横から矢野町を望む

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■社倉総鎮守の碑■


社倉とは日頃から町や村の
穀物を蓄えておき
凶作や災害の時に
これを放出し
飢えに苦しむ人々を
救済する為の方策らしい
この神社では
1747年、第11代神宮
香川将監が社倉法を実施し
814町村の人々を
救済したとのこと

■社倉総鎮守の碑■


そんなこんなで
広島藩主・浅野氏が
人々を救済した褒美として
浅野氏の家紋や
芸備両国社倉総鎮守など
数多くの褒賞を与えたらしい

■拝殿■


拝殿の屋根には
浅野氏が与えた
虫食い鷹の違い羽の紋

■拝殿■


広島藩主・浅野氏の家紋と
そっくりですが
広島藩主・浅野氏の家紋は
芸州鷹の羽なので
虫食い鷹の違い羽とは
ちょっとデザインが違います

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■招魂社■


矢野町出身で
国家の為に殉職した英霊と
西南の役以降
各戦争で戦死した390柱を祀る

■招魂社■


本殿は1941年建立

■鎮疫社■


高皇産神、経津主神
建御雷神を祀る
1720年
矢野付近で流行した天然痘を
鎮める為に建立
本殿は1935年改築
尋常じゃないくらい
傾いてました

■若宮■


通称・野間殿
矢野城主・野間興勝
社家・香川氏の祖
香川勝重を祀る
1614年に遷座
本殿は1971年改築

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■石灯籠①■


芸備十六郡代官一同が
寄進したものらしい

■石灯籠②■


1782年建立

■石灯籠③■


1902年建立

■石灯籠④■


1792年建立

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■石灯籠⑤■


文化4年か、文政4年建立
文字が見えなかったです!

■石灯籠⑥■


1911年建立

■石灯籠⑦■


1773年建立

■香川将監の生誕地■


香川将監は
江戸時代中期から
後期に活躍した
尾崎神社の第11代神宮
凶作や災害に備えて
穀物を蓄えておく
社倉法を実施した方らしい

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■境内からの景色■


矢野町を望む

ひと足のばして
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■矢野城跡■


絵下山の中腹
標高 約265mの所に
あります

■矢野城跡■


別名・保木城(発喜城)

■矢野城跡■


城跡には矢野城の城主
野間氏の墓石が並んでました

■矢野城跡■


広島では結構頑張っていた
領主だったようです

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■矢野城跡■


1335年、熊谷蓮覚が築城した山城
当時この地は後醍醐天皇ゆかりの荘園が多い地で
眼下に山陽道、広島湾が見張れる陸海交通の要地だったらしい

1335年、足利尊氏に呼応した北朝方・安芸武田氏、毛利氏、吉川氏
vs
後醍醐天皇の南朝方・熊谷氏の激しい攻防戦があったらしい

4日間の攻防戦の末、矢野城は落城し熊谷蓮覚は討死したらしい
その後1445年、室町幕府第8代将軍・足利義政より領地を与えられて
尾張国・野間荘より野間重能が矢野城に入城
第4代・野間興勝の時代に最盛期を迎えたらしい
近隣の平賀氏や小早川氏と争いを繰り返し勢力を拡大したが
1555年の厳島の戦いの際、陶晴賢側に味方した野間氏は、毛利元就の調略によって降伏
しかし降伏したにも関わらず野間氏一族は皆殺しされ滅亡したらしい
同時期に矢野城は廃城となったらしい